その朝、目覚めた“彼”は最初に『静かだ』と思った。
彼が戻ってきた街は、日本でも有数の大都市。その近郊にある住宅地は、喧噪とまではいかなくとも雑多な音はひっきりなしに響き渡る。事実、昨日は最寄り駅で電車を降りた時点で耳を覆う雑音に呆然としてしまったのだ。きっと、自分はそれが懐かしいと思うなんて予想をしていたのに。
だが、今はどうだ。ベッドサイドのテーブルに置いた目覚まし時計はセットされた時間よりもずいぶん早くを指している。その規則正しく動く微かな秒針の音すらもはっきり聞き取れるんじゃないか?
おかしいな、とまだ……そう、霧がかかったような意識で彼は思う。この街はこんなにやかましいと思ったのに、どうしてなんだろう? ああ、もしかして、ここがマンションの高層階だからだろうか。人工的に作られたの箱のような閉ざされた場所だから?
堂島家の開かれた家の中には、そして彼の部屋には、朝からたくさんの音が満ちていた。窓を揺らす風、四季折々の虫の声、鳥の囀り、近所の犬の鳴き声、あるいは朝ご飯をねだる猫の甘えた声。あの犬は彼を恩人だと思っているのかよく親しんでくれたものだ。川原に集まる猫に餌をやってみたらすっかり懐かれてしまって、危うく堂島家を猫屋敷にしてしまうところだった。だって、そんなことになったら困るなぁ、と悩んだりもしたのだ。なにしろ彼は一年しか、この街にいないのだから。
「……『この』街じゃないか、もう」
ぽろりと声が零れて、しかしそれはまるで他人事のようで。
なんだか意識が漫然としていて危うい、だから彼は改めて自分自身に言うことにする。
もう稲羽市は『あの』街なんだ。自分は八十神高等学校から元の学校に再度、転校する。起きるのももっと遅くていいのだ。菜々子と一緒に朝食を用意したり、千枝や完二の食欲も考慮した大きな弁当を作ったりする時間を省けるのだから、こんな時間に起きる必要はない。
そうわかっていても、習慣になってしまったことはなかなか身から離れはしないだろう。
……ああ、もしかしたら忘れたくないのかもしれない。今だって待ってるんだ、いつものように聞こえてくるのを。階段を上る、極力潜められた、けれどなんの気後れもしなくなった足音の後、遠慮がちな小さなノックがして、そして、
『お兄ちゃん、おはよう。朝だよ、もう起きてる?』
思い描いた光景を抜け出して現実となったそれに、彼は布団をはねのけて身を起こす。
錯覚か? いや、それにしてははっきりと聞こえた。間違いない、聞き間違うことなんてありえない菜々子の声だった。でもどこからだ? まさか? どうして? ぐるぐる考えを巡らせながら、彼は自分の部屋のドアを固唾を呑んで見つめる。もし、もし菜々子なら、返事を待たないでドアを開けてくるはずだ。そうしてもいい相手なんだって、あの1年で認め合えたのだから。
『お兄ちゃん、おはよう。朝だよ、もう起きてる?』
え、と彼は目をしばたたかせる。一言一句、むしろ発音さえまったく同じそれは……
『お兄ちゃん、おはよう。朝だよ、もう起きてる?』
また聞こえた時には、どこからのものなのかを確認する余裕すらできていた。しかしなんとなく釈然としない気持ちのまま、ぎぎぎ、なんて擬音がしそうなゆっくりさで彼が見たのはベッドサイドのテーブル、そこに置かれた携帯電話だ。電話着信を示す照明の明滅と共に聞こえてくるということは、つまり。こんな簡単な推理とも呼べない推理、直斗でなくたってできる。
手にとってボタンを押す。そしてもしもし、と返せば。
『あっ……あの、お兄ちゃん?』
「ああ。おはよう、菜々子」
『うん! おはよう、お兄ちゃん!』
電話越しのノイズに僅かに歪んではいるものの、いつもどおり、昨日までと同じ元気な挨拶に笑みがこぼれる。驚いたことに遼太郎もその場にいたらしく、菜々子と電話を代わり、朝から悪いな、菜々子がどうしてもって聞かなくてな、ちゃんとたどり着けたみたいだな、なんて上機嫌な声を聞かせてくれた。そしてまた電話口に出た菜々子は、あのねあのね、と嬉しそうに、
『みんながね、お兄ちゃんの電話にね、菜々子の声を入れてくれたの。お兄ちゃんをびっくりさせようって!』
なるほど、恐らくこの着信音設定のイタズラ、その言い出しっぺは陽介に違いない、と彼は見当をつける。伊達に親友はやっていないのだ。まったく、あいつなら思いつきそうなことだ。その発案にりせやクマが大いに乗り気になる様子すら目に浮かんでくる。
『お兄ちゃん、びっくりした?』
「そうだな。びっくりしたけど、嬉しいよ。今日も菜々子に起こしてもらえて」
『……よかったぁ! 菜々子もお兄ちゃんと朝のご挨拶できて嬉しいよ?』
これから毎日お電話するね、と張り切る菜々子の声を聞いていれば、生活習慣を改める必要なんて最初からなかったじゃないか、と自分に呆れてしまう。遠くの『あの』街で、みんなは今までと同じように生活している。それはみんなにとっても同じことだ。彼がこの街で、いつものように暮らしているのと。
「菜々子、そろそろ学校へ行く支度をしないとマズいんじゃないか?」
『あっ、うん……』
ついつい話が弾んでしまい名残惜しいが、ちらと時計を確認して彼はそう告げる。菜々子は残念そうに息を吐いて、それに彼は受話器の向こうで小さな肩を落とす姿を簡単に想像できて……でも、菜々子ならすぐに顔を上げてくれる。そして笑顔で言うのだ。心を込めた一言を。
『あのね、お兄ちゃん……えと、がんばってね! 菜々子もがんばるね!』
「ああ、ありがとう」
通話を終えて、手の中に収まっている電話にまた微笑みが漏れ……そして、ふと彼は思いつく。
あいつらが、こうして菜々子の声を仕掛けただけで満足するなんて到底思えない。
確かめてみようと携帯電話を操作しようとしたが、すぐに彼は肩をすくめてそのまま机に戻した。……そして、自身も通学のため身支度を調えるべく立ち上がり、ひとつ伸びをする。
その日、通学の道すがらでひっきりなしに自身の名と朝の挨拶を囀る携帯に彼が困らされたのは、また別の話。
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