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ゲーム寄りのよろず二次創作ブログ
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ACE COMBAT 6 SS
シャンデリア攻落のあと、シャムロックが救出された後のガルーダ隊
捏造を多分に含む




 それは、幸せの香りだ。
 妻の焼いたキッシュの香ばしさと娘が好きなフルーツジュースの甘い芳香。暖かな光の中にそれが満ちるここ、愛しき我が家こそが彼にとっての安息の地だった。死して至るというかの地よりも美しい、自らの手で作り上げた楽園。
「マーカス?」
 耳に飛びこんできた自身の名に、ぼんやりとそんなことを考えていたシャムロックははっとなって声がした方を見る。4人掛けのテーブルの斜向かいから穏やかな笑みを向けるのは、この楽園の礎である彼の、最愛の存在。そんななんの飾り気のない言葉こそがふさわしい人だ。
「……モニカ?」
「どうしたの、ボーっとして。まだ疲れが抜けない?」
 案じてくれるその言葉にシャムロックは答えることができなかった。なにがどうなっているのか、理解が追いつかない。それでも、状況を把握できない緊張の中でも冷静さを保つように訓練された部分が、もっとも根本的な疑問を自身に提示し始めた。ここは、どこだ? 回答は明白、間違えるはずなんてない、ここはランパート家のリビングだ。だからモニカがここにいることは少しもおかしくはない。いや待て、おかしいはずだ、とシャムロックは息をのむ。なぜなら、彼女は。
「休暇、二週間じゃ足りないって言ってみたら? 貴方とあの子がそろって言えば、ちょっとは違うんじゃないかしら」
 なんてね、とくすくす笑いながらモニカは視線をリビングの向こうに投げる。つられてシャムロックも同じようを見たその先、床に敷かれた絨毯の上にあるふたつの姿に身を、そして思考も凍らせた。
 父と母のほうを向いて座っている娘のジェシカは、しかし両親を見ているわけではない。その前に向かい合わせに座ったもうひとりと、なにやら楽しげに話しているのだ。シャムロックから見えるその背中には一点の曇りもない豊かな濡れ羽色の髪が流れて、差し込む光に鋼の輝きを魅せている。
 なにが起こっているんだ? 彼女はここにいるはずがなくて、いや、それも違う、とシャムロックはともすれば思考を放棄したくなる自身を叱咤して考えを繋げる。彼は、『相棒』が取り戻してくれた『ここ』を、彼女自身と共有するのだと心に決めていたのだから、おかしくないのだ。だからいまこの風景には少しもおかしなところはないのだ、きっと。
 そう、きっと妬んだ悪魔どもが、悪い夢でも見せたのだ。もしくは、あり得たのかもしれない未来のひとつを不安が見せてしまった。だから、きっとこれが本当。輝ける神鳥に導かれたエメリア軍は無事に故郷グレースメリアを取り戻して、こうして自分たちは約束の休暇を楽しんでいる。それだけのことだ。そう結論づけて、シャムロックは妻へと微笑みを向ける。
「そうだな。僕たちが言えば司令部も考えてくれるかもしれない。けど、まだそんなことを言っていい時期じゃないんだ」
「ええ、わかっているわ。貴方はもう、私たちだけのマーカスじゃないもの」
 ふんわりと微笑みを返すモニカの表情には一抹の寂しさも見えない。だが、それが彼女が自身に課した、妻としての理解ある姿だということはすぐにわかった。本当に自分にはもったいないほどによくできた人だ、と想いを新たにしつつシャムロックは続ける。
「この国にはまだもうしばらく、祈りを受けとめ加護をもたらす“タリズマン”が必要なんだ。そして僕は、その相棒“シャムロック”であり続けたい」
「ふふ、なんだか焼けるわねぇ。貴方にそんなことを言わせるなんて」
 え、とシャムロックは不意を突かれてポカンとし、慌てて手を振る。
「いや、別にそんな、タリズマンは……」
「『相棒』に会わせたい、なんて聞いたときは、どんな厳つい軍人さんが来るんだろうねってジェシカと言っていたのだけど。まさか、あんなに可愛らしいお嬢さんだったなんて」
 半分は冗談、半分は本気。出会った頃から少しも変わらないままのいたずらっぽいモニカを見ていれば、シャムロックも自然に頬が緩む。こんな言葉を交わせることがどれだけの幸福なのか、たった七ヶ月前の彼は知らなかった。ここにあるのは当たり前の日常で、これからも取り戻した黄金の日々がなんでもないことのように流れていくのだ。
「なんだ、君こそ言うじゃないか。僕の相棒が、この国を救った天使だって知ってただろう?」
「ええ、貴方だって天使だものね。それとも金色の王様だったかしら?」
 どっちもやめてくれ、とシャムロックは苦笑する。鋼鉄の羽根を持つ者とはいえ仮にも三十代半ばの男なのだ、天使なんて呼ばれる柄ではないし金色の王様は恐れ多いどころの話ではない。まあ、もっと簡単に言えばどちらも恥ずかしくてかなわない。それにシャムロックにとっては、そんな大仰な渾名よりも“ガルーダ2”というコールサインこそがもっとも栄誉ある称号に感じられるのだから。
「まあ、少なくとも僕よりはタリズマンのほうが天使にふさわしいのだろうけど、でも、僕たちにとって彼女は最高の戦友で、エメリアのエース“ガルーダ1”だからね」
「もう、本当に焼けるわねぇ」
 くつくつと笑い合いながら、ふたりはまた視線を娘達のほうへ向けた。今はタリズマンが何事かを身振り手振りを交えながら語っているようで、その熱心な様子に魅入られたようにジェシカもうんうんと頷いている。なんとも微笑ましい光景にシャムロックが笑みを零せば、モニカも同じだったのか、
「でもいい子だものね。ジェシカともすっかり仲良くなってくれて」
「ああ、ふたりは絶対に気が合うと思ったんだ」
 それが25歳と9歳という組み合わせに対する確信としてはややズレていることに気がついていないシャムロックに、モニカはまた笑う。彼としては、姉妹の仲が上手くいくと確信を持っていたようなものなのだろう。そのふたりの会話は、恐らく彼女らの『父』も駆る飛行機に関することではないだろうか。タリズマンの動く腕と手は、さっきからマニューバを説明しようと躍起になっているように見えるし、それにつられて動いているジェシカの体の様子はちょうどゲームに熱中している子どものそれだったからだ。ジェシカは以前から飛行機に興味を示していて―まあ、だからこそタリズマンとは気が合うに違いないと思っていたわけでもあるのだが。
「…………」
 なぜだろうか、そんな仲睦まじい姿を見ているというのに、シャムロックはさっき忘れようとした悪い夢がじわりと足下を浸食するような感覚に襲われる。こんな幸せを享受して本当にいいのだろうか。確かに、ここに再び結ばれよりあわされた絆のために彼らが払ってきた代償は計り知れない。それこそ、不可能を可能にし奇跡を幾度も起こしてなんとかたどり着いたのだから、その見返りには充分だ。だが、なぜか恐ろしい。……もしかしてこれは、この世界をまた奪われる可能性への恐怖なのかもしれない。
「……ねえ、マーカス」
 急に潜められたモニカの声。それがなにかを予感させてシャムロックを蝕む悪夢が加速し、ふいに両の足がズキリと痛みを伴って脈を打ち始める。歪んだ表情を見せまいと彼はとっさに俯いて、苦痛を訴える声を堪えるためにテーブルに乗せた手を握りしめた。
「貴方も知っているんじゃない? 本当のことを」
 その手に、傷ひとつない美しい手が重なる。遥かな空を知らない、戦争を知らない、でも地上にある灯火を守る術を知る、これも守人の手だ。その事実にシャムロックはただ首を横に振り、その拍子に溜まっていた涙がぽたりと落ちる。痛みで泣くなんて、もうそんな子どもじゃないだろう。そう呆れる己の空しさをわかってしまっている、その時点でシャムロックはもう観念していたのかもしれない。彼を包む温もりこそが望んだ夢で、脈打つ悪夢こそが真実なのだ、と。
 それでもシャムロックはまだ認めたくなかった。それこそ子どもの我が儘のようなものだとわかっていても、ここにしがみつきたいと思ってしまう。だから顔を上げて彼女に救いを求めようとした。彼女は、タリズマンは、モニカ達と同じ側へは足を踏み入れていないはずだから。
「……!」
 だが、そこでようやく気がついた異常にシャムロックの全身から力が抜けた。……ランパート家のリビングは平均的な広さしかない。テーブルに着くふたりと、床に座って話すふたりの合間にある空間の広さなどたかが知れている。それなのに、確かに彼女はこちらにずっと背を向けたままだけれど、あれだけ熱心に話す声がまるで聞こえないなんてあるはずがない、ジェシカの相づちは聞こえているのに。
 ああ、と打ちのめされたシャムロックが力なくうなだれれば、その視界に入る重なり合う手にわずかな力が入った。まるで励ましてくれたかのようなそれだったが、逆にシャムロックの中には堪えがたい悲しみがこみ上げてくるばかりだ。
「モニカ……」
「もう、いいのよ」
 これは夢だ。シャムロックは相棒を残して、彼女をひとりにして、あの地獄そのもののようだった雪原の戦場から氷に閉ざされた海へと墜ちたのだから。だからこれは、人が死ぬ間際に見るという走馬灯のたぐいなのだろう。この幻想はシャムロックが望む通りに展開されているのであろうし、だからこのモニカの許しは欺瞞、罪悪感の表れに過ぎない。
「で、も、僕は、なにも」
 また涙が降る。ぱたぱたと音を立てて、重なり合った手の内側に注ぎ込まれるように。
「なにもしてないなんて、できないなんて、嘘よ。貴方にはできることもあるし、しなくちゃいけないこともある」
「……え?」
「あの子に謝ってね、マーカス」


 パチンと、何者かによってスイッチが切られた。そう思えるほど唐突にすべてが暗転し、そして世界が覚醒する。
 目を開ければ光があり、そこに広がる白は重力を示す指針としてはわかりやすいものだ。つまりそれはシャムロックの記憶にないどこかの―ランパート家では決してない―天井で、己がそれを見上げられる姿勢にあるのだという事実がすぐに認識できた。それ以前の前提……生きているのだ、という事柄についてはもう驚きはなかった。モニカが、そう言ってたから。そのことを誰かに話せば、滑稽だと思われるに違いない根拠だが。しかし、自身がどういう状況に置かれているのかはさすがに把握できなかった。
 今はまず間違いなく、彼の最後の記憶の続きなのだろう。だとすれば、極寒の海に墜落したのだから生きているのが奇跡と言っていいだろうし無傷で救出されたとは到底思えない。が、大仰な装置に繋がれ生かされているわけでもなく、こうして目を覚ましても周囲からなんの反応もないし、誰かがつきっきりになる必要があるほどの重傷でもないらしい。更に言うのなら、監視がないということはエストバキアに囚われているわけではないようだ。
 さて、どうしようか。まだ現実感に欠ける意識のまま、今度は自身の五感を確かめる。動く部位はあるだろうか。……腕はある、だが足に感覚がない。もしや、なくしでもしたのか。他人事のように考え、ひとまず確認できないかと機械的に首を動かしたとき、突如、視界になにかが勢いよく入りこんできてシャムロックはぎくりとする。
 いや、入りこんだどころではない。それはシャムロックの横たわったベッドに半ばのしかかり、そもそもろくに動けない彼を拘束しようというのか、両手を顔の横について閉じ込めるようにしてきた。その犯人、何事かと硬直するしかないシャムロックの真正面、逆光のなかに炯々と光る瞳の持ち主は、
「…………」
 タリズマン、と呼びかけたつもりだったが、驚きにかそれとも怪我のせいなのか、とにかくシャムロックの喉は思ったような働きを拒んだ。ひゅうと息が漏れただけで意味を成さない彼の反応をどう思ったのか、タリズマンは引きつった頬をさらにひくつかせる。それは無秩序に吐き出しそうになったものを必死に飲み込んだようにも見えて、揺れた肩からさらりと流れ落ちてくるのは濡れ羽色の滝だ。ちょうどシャムロックの顔の周りに紗幕のように降りたそれは、覚醒した彼の世界をもう一度いずこかへと区切るようであった。が、本当の目的は別にあったのかもしれない。
「……っ」
 それは、ぽたりぽたりと落ちてくる雫を誰からも隠すため。そして、涙を流すのには不釣り合いなその表情とのアンバランスさを、他の誰にも見せないため。なぜなら、彼女は勝利国の『英雄』なのだから。
 こうして互いに無事に―五体満足ではなくても―地に降り立っているということは、この『黒翼の鳥』は片翼をもがれても墜ちはせず課せられた使命を果たしたのだ。相棒が残したものを最大に活かしあの不死の火龍を、シャンデリアを陥落させた。それはエメリアの勝利を、戦争の終結を意味するはず。
 だが、いまの彼女はまだ戦っているのではないか? その敵はもはやエストバキアではなく、それどころか姿持つ者どもですらない。言ってみれば、この世界の理不尽そのものだ。それはとてつもなく無謀で不毛な戦いに違いなく、だから、これだけの覚悟を宿した表情をしているのだ。そして、それにはもしや『相棒』も含まれているのだろうか。ゆえに、こんな表情をシャムロックに向けているのか。
 互いに見つめ合ったまま、なんの言葉もなく静寂がその場を支配する。その長いようで短い時間のあと、なにが呼び水となったのか定かではないが、タリズマンの固く引き結ばれた唇がほどけて、
「……生きてる、じゃないか」
 絞り出された言葉のあと、がくりと体が揺れる。支えの腕から力が抜けたのか、そのまま沈み込んだ体はシャムロックの上半身の半分に覆い被さるようになり、
「死ぬのなら、ちゃんと……死ななくちゃダメだろ」
 左の肩口に押しつけられた額の熱が、そして微かな吐息と共にかけられた言葉がゆっくりとシャムロックの中でほどけていく。表面だけをなぞればこうして生きて戻ってきた彼を皮肉ったようにも取れるそれは、間違ってもそんな浅いものではない。
 彼女は、『この手で戦争を終わらせる』という相棒の願いに純粋に応えた。彼自身が、もはやそれだけのために生き後のことなど想像の内に含む気すらないとわかっていて、だ。いつか彼女自身が言った『命の使い所を間違えるな』という忠告の通り、ここが終焉の空だと相棒が決めたことを認めざるをえなかったのだろう。
 想定された終わりを目の前にした時、シャムロックはある意味、晴れやかな気分でもあったのかもしれない。これでいい、露払いに翼を羽ばたかせ、この命を相棒のための灯火として燃やし尽くして死ぬのなら悪くはない。あとはすべて相棒が彼の願いを叶えるべく、すべてを終わらせてくれるはず、と。
 だが、それは覚悟なんてものではなかったし、そんな灯火などタリズマンは望んでいなかった。それでも彼女は、自身が果たせなかった『戦う理由』を補完するために受け取ってくれたのだ……その身を曝し焦がすことも、厭わずに。
 しかして彼女は、そこから逃れられなくなってしまったのか。
「わかる、だろ?」
「!!」
 まるで彼の思考を読んだようなタイミングのそれに、ぞわりとした感触がシャムロックの背を這う。タリズマンが自分になにを訴えているのか……未だに戦い続ける呪いを科したことを、責めているのか? そう、なぜなら彼女がそうなるように仕向けたも同然だと、彼はわかっているのだから。
「シャムロックは、生きてるんだ」
 続く裁きの言葉を待つ咎人の耳に届いた声は、確かに彼を糾弾する響きを含んではいた。が、しかし断罪の意志など欠片も含まれない。言うのならば、怒り、だ。すべての理不尽へ挑むには充分な怒りで、ただただひたすらに彼に問う。どうして気がつかないのか、と。
「……ああ」
 すとんとシャムロックの中でなにかが落ちる感覚がして、体へとほどけていった熱が今度はじんわりと瞳へ集まり溢れて流れ出していく。それからようやく、シャムロックの喉が肯定するための声を出すことを認めた。それは微かなものではあったが、それでもタリズマンには確かに聞こえたことだろう。額がより強く押し当てられるのがわかって、また熱が後から後から流れ落ちていく。それは生きている、生きることへの覚悟の証。そうだ、覚悟というのは、命を投げ出せることではない。どんなことが起ころうとも、すべてに等しい大切なものを失おうとも、その痛みすら飲み込んで生にしがみつくことなのだ。
 タリズマンはいつだってそれを真っ直ぐに現していた。それは、ユリシーズという抗えぬ運命に一度は殺されてしまったからこそ、奇跡のように再び与えられた『生きること』に懸命にしがみついたというだけなのかもしれない。でも、そんな彼女が隣にいて、先に立って飛び続けてくれたからこそシャムロックはここまで来れたのだ。……そんなこと、とうに気がついていたはずなのに。そう、例えば謹慎処分中のあの一件でだって思い知ったはずだったのに。
 ああそうだ、とシャムロックは思い出す。まさにその処分の発端となったモロク砂漠での戦い、その最中に発露した想い。大切な『家族』をこの怨嗟の円環から解放したいと、そう願ったからこそシャムロックは自らを省みずに戦った。やはりそれはすべてが間違いではなかったし、想いは今だって変わらずにこの胸にある。そしてそれができるのは誰なんだ?
 そんなの、ひとりしかいないじゃないか。
「……っ」
 右腕に力を込めた途端、鋭い痛みが走る。やはり無傷ではすまなかったのだろう。だが腕も手もしっかりと動いている、操縦桿を離れても。一度は戦闘機の一部にすぎないなどと思ったこの命は、力強く脈動していた。感じる痛みなどむしろ喜ばしいことだ、とシャムロックはそれを励みにするように、少しずつ距離を詰めていく。
「!」
 頭に乗せられた感触にタリズマンがびくりと反応した。そしてわずかに顔を上げて、髪を押しつけるように動く―恐らく撫でているつもりなのだろうが、怪我と大部分を覆う包帯のせいでちっともうまくいっていなかった―手の主を見つめる。
「…………」
 無言のままのその表情は、叱られた幼子か、それとも示された未来という茫漠とした行き先に立ちすくむしかない少年のようにいとけないものだった。それに向かい精一杯にシャムロックは微笑む、いつものようにうまくいったかはわからないなりに。そして紡ぐ言葉は、考えるまでもない。
 なあ、『モニカ』。君は謝るべきだと言ったけど、多分、彼女がほしいものはそれじゃないんだ。
「ただいま、マリア」
 僕はちゃんと帰ってきた。君が立っているのと同じ場所に、君が還ると決めた場所に。いつかの夜に告げたのと同じように、しかし、あの時とは異なるとても簡単な言葉を捧げる。そして呼ぶのは、空に在るときのものではない唯一無二の彼女の名前だ。
「……り、なさい」
 応える声が掠れているのは、涙に濡れているがゆえ。だがその涙は悲しみのものではないし、憤りからくるものでもない。きっとタリズマン自身にも理由のわからない、まさに感情の迸りそのものであろうそれに彼女はふるふると首を振って、もう一度、必死に口を動かす。それは、ちゃんと言わなくちゃいけないという親の教えを守る子の、幼いなりの正義感のようで、
「おか、え、りなさ……」
 い、の音はもはや吐息と同じだった。恥じらいなど忘れたかのようにその顔をくしゃくしゃに歪め、大粒の涙を零してしゃくりあげて身を乗り出す。童女のように首にしがみつこうとして、でも横たわっている相手ではうまくいかずにただ首筋に顔を埋めたタリズマンの頭を、シャムロックは少し遅れて追いついた手でまた撫でた。
 その感触に驚かされたときと変わることのない、ひんやりとして滑らかな髪は彼自身とも、彼の家族の誰とも違うものだ。だけどこんなにも、血よりも濃く熱くなににも代えがたいほどに尊く、その想いは愛しさに似ている。……そう思える己がここに生きている、そしてそれを喜べることをシャムロックが感謝すべきは他の誰でもない、彼女自身なのだ。かつて彼女が彼に同じ想いを捧げたように。
「……ただいま」
 もう一度小さく呟いて、シャムロックはその小さな頭を抱き寄せた。

 

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