剣術の型など意識したことはない。
相手を確実に殺すことができればそれでいいのだ。この、人間の一切の常識など無価値なノモスにおいて剣技の美しさなどを競ってなんになろう。
戦う理由なんて考えたことはない。
死にたくないから叩き切る。それだけだ。本来の意味での『死』がここにないとしても、精神の死はありうる。実際に何度も死んで何度も還ってきた上で彼女はそう思うのだから。
では、考えてみよう。
愛するのに理由はいるのか?
「……つまりそれはエゴだ」
独りごちた声に合わせて、ちゃぷんと水音がする。口の中に流れ込んだぬるま湯に、回復の泉を温泉感覚で使っているのはこの魔界で自分くらいだろうかという下らない考えが、たゆたう真歩の思考を遮った。ついでに未だに残る口中の傷に舌で湯を塗り込むようにする。こうすれば、すぐにとは言わないが、傷の治りが格段に早くなることは確かだ。その原理は、知らない。
一糸まとわぬ格好で膝を抱え湯に身を浸す真歩はまったく以て、あらゆる意味で無防備だ。しかしそれをより広い視点で、この部屋全体という意味で捉えてみれば、ある程度の安全は約束されている。部屋全体にかけられた結界とそれを護る半人半妖の存在によって。
痛みが引かないな、とぼやきながら真歩は下腹部に手をやる。そこにあったはずの深い爪痕は仲魔の回復魔法ですっかり消えていた。全身にこびりついた、気持ちが悪いとしか思えなかった汚れも泉がすべて引き受けてくれたというのに、内部で胎動する痛みだけがまるでその存在を主張するかのように燻っている。
「冗談じゃすまない、かな」
万が一のことが在ればどうしたものか、薄気味悪い想像だが実際に蠢いていてもおかしくないのかもしれないのだから参る、と真歩は天井を見上げた。
この身を惜しむ理由などないのかもしれないが、死にたくないのだからしょうがない。それもまた自分を慈しむという『愛』ではないか。魔界といえど世の法則は『命あっての物種』だ、だから生きるために使えるものはなんだって使う。襲ってくる悪魔は撃退し力に変え、慕ってくれる仲魔だって合体材料にできる。それが人間だと真歩は胸を張って言える。
では、彼はどうなのだろう?
「人間だと思ってるんでしょうね」
くくっと喉が鳴る。自分にこんな笑い方ができるのだと真歩は初めて知った。それともできるようになったのだろうか、ここ数週間で身に刻み込まれた経験から。
「だけど私は人間だ」
その笑いと共に、ぐっと腹部に指が食い込む。
気持ちが悪くて仕方ない。できることなら全身の内容物を吐き出してしまいたい。すべてを取り替えてしまいたい。……ああ、今こそ死すべきなのかもしれない。今一度、あの見事な花畑、そう、まさに空想される死に景色そのものの馬鹿にしたあの光景を見てくれば、全く別の再生を果たしたことになるのかもしれない。
あの情緒的な死を設定したのが魔神皇だとしたら、彼は相当な皮肉屋か馬鹿正直な子どもと言えよう。それに対し、自分は子どもである以前に女という生き物であろうとすると真歩は自身を省みる。
「……おい」
「ん? なに?」
かけられた声は、岩場の向こうから聞こえた。ばしゃりと音を立ててあごを上げて返事をすれば、安堵の混じったため息が響く。
「生きてるのか」
「なにそれ。あと、一応、私、お風呂中なんだけど?」
「気配がまったくしなくなったから見に来ただけだ」
へー、と言いながら掌に泉の水を掬った真歩は、ひょいっとなんでもないように後ろに向かって投げつける。すぐにパシャンというささやかな水音と、くぐもった悲鳴が上がった。
「な、にしやがる!」
「覗きに水をかけるのはお約束でしょう」
「誰が覗くか」
「もうたっぷり見たから?」
アキラが息を呑むのがはっきりわかって、真歩は苦笑に似たものをその唇の端に浮かべた。数時間前、いや、そろそろ十数時間前になるのかもしれないが、自らが『食った』相手にとる態度かそれは、と呆れて。
「ああ、もしかして必死で見てな……」
「黙れ」
ビクリと肩が震えた。それだけの圧力がそこに篭もっていたからだ。それは、やはり同じく数時間前、自分を組み敷いた時の力と同じレベルの、物理的なもの。まったく、こんなときだけ魔神らしくなるのだから困ったものだ。それ以外のときは、自分がどちらなのかを悩み、間近にあるものでその答えを試みようとする己を押さえるのに苦心しているくせに。……そして、ついに軛から己を解き放ったくせに。
でも、おかげで助かった。そう真歩はうっすら笑う。今度のものはとびきり楽しそうで、ひどくあどけないようで、しかし醜悪を孕む。
魔神皇が自ら作り上げた牢獄は、彼の腰掛けでもあるのだから笑わせる。最初から終わりが想定されている、だからこの世界は試みる。命に価値がない分、魂を試すのだ。このノモスを登る覚悟と気概、この答えが『人間であること』を問いかける。
それを見失いがちになるのは人間が人間であるゆえ、しかし真歩は、もう決して見失わない。だかアキラは違う。彼は暗い迷い道に踏み込んだ。自分が未だに真歩に情と欲を向けられることで安心しているはずだ。更にそれを、やがては愛とか思い込むのかもしれない。
しかしそんな彼を嘲るつもりは、真歩にはない。お互い様だ、単なるベクトルの違いでしかない。
「ねえ、そんな顔しなくていいって」
「……見えてないだろ、顔なんか」
「見えないよ。けど、わかる。君は割と分かりやすいしね。多分アレだ、責任取って護らないとならないとか思ってるんでしょう?」
返事はない。しかし、わかる。だって彼は、『宮本明』は失うわけにはいかないはずなのだ。自分を試みることができる唯一の道具を。
「別にいいよ、減るものじゃないから。傷だって治ったし噛みつかれた跡も消えてる。あとで見せよっか?」
「そういう問題じゃ……」
「そういう問題、私にとっては」
むしろ提起だったのだ、真歩にとっては。しかも答えはもう出ている、表裏一体のものとして。しかしそれをアキラに伝える気は更々なく、表面だけでも無邪気さを装い彼女はただ笑う。それが、自分を生かす術だと知っているから。
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