「……っ!」
声にならない悲鳴が、玲子の耳に届く。
「!?」
振り返った先、すぐ近くに、紬原秋都の長身が見える。手に持った武器が向けられた先には、屍鬼の骸が転がっていた。秋都がケガをしていないことは見て取れたが、そのはずの身体が青みを帯びた岩石の壁にゴトッと寄りかかる。
「大丈夫ですか!?」
玲子の声に、大丈夫という風に振ろうと上げられた片手が、壁をつかんだ。そのまま、ズルズルと身体が床に沈んでいく。カラン、と先に手から滑り落ちた刀が音を立て、
「秋都先輩!!」
慌てて倒れ込むその体を支えようとするが、秋都と玲子では体格に差がありすぎる。身体に手をかけたまま一緒にしゃがみ込む格好になって初めて、後ろから覗きこんだ秋都の顔色が真っ青に近いことが分かった。
「……う、あっ」
毒だ。浅く早くなっている呼吸に、玲子は瞬時にそう判断する。この怠惰界に来る前にも、悪魔に付けられた傷から同じような症状になったことがある。すぐに治療すれば命に別状はないはずだ。
冷静に、しかし急いで解毒呪文を唱えようとしたとき、
バササッ
「!」
響いた音に、とっさに秋都をかばうように抱えて辺りを見回す。周りにはもう悪魔は見えない。先ほど秋都が屠った屍鬼が、今相手にしていた群れの最後だったはずだ。しかし、また鳥の羽ばたくような音が聞こえ、
「あ……!」
それが、倒れた屍鬼の向こうに転がっていた、秋都が仕留めたと思われた怪鳥がもがく音だとようやく気がついた。が、そのときには相手はもう狂ったように、実際、死の間際にて狂っているのだろう、異様な羽ばたき音を立てて舞い上がろうとしている。
(いけないっ!)
それが完全にこちらを攻撃する体勢に入る前に、秋都が取り落とした刀をつかんだ。そのまま、秋都を背後にするようにじりじり移動して、ひざ立ての格好で両手で柄を握りしめ構える。立ち上がる余裕は、玲子の心になかった。
「お願い、来ないで……」
刃を向けた先にうめく。もちろん、もう玲子を視界に捕らえている相手には、それは到底通じることのない戯言だと分かってはいたのだが。
死にその身体をからめ取られた怪鳥の、狂った瞳がぶつかってくる。
冷や汗がにじみ出た手の、額の、全身の温度が下がってゆく感触が玲子を包む。
(重……い……)
どれほどこの世界にいても、どうしても慣れることが出来ない、武器の重み。
こんなに重いもので、戦えるはずがないのに。
(血を吸っているから?)
突然、そんな声が聞こえた。いや、聞こえたのではない。それは間違いなく玲子自身の独白だったけれど、まるで誰かが玲子を嘲っているかのように、聞こえてきた。
クルアアアアアアアッ
動揺した玲子の、その隙を狙ったように怪鳥が吼えた。
反射的に竦ませた身体の、喉の奥を、焼き付いたような感覚が蝕む。
それを振り払うように、玲子はあえいだ。
「秋都……先輩」
この刀を振るい続けている人の名前。
それがまるで、自分に向けられた悪意であるように。
「だめ、……やめて……」
瞳を閉じても、逃げられるはずなどない。
そんなことは分かっている。
ここでどんなに叫んでも、届きなどしない。
しかし。
ここが全て、魔神皇が作り出した世界なら。
この悪意は全て、彼のものだ。
完璧なまでに彼に所属するもの。
(何故、何故……どうして……!)
「……にいさんっ!」
――――その叫びに答えたのは。
「え?」
暖かな感触。
「目、閉じてろ」
鋭く低い声が耳元で聞こえ、暖かさは玲子の手を包み込む。
手の上に重ねて、刀を握る大きな手があって。
玲子の手から、秋都の手が刀を抜き取った。
「っつあぁっ!」
真っ青な顔で、それでも身体をバネのように動かして。
秋都の瞳はただ相手を見据え、的確にこれに刃を向けた。
ねじくれのない殺意に、殺意を。
クワアアアアアアッ!
断末魔の悲鳴と同時に目を開けた玲子の視界には、赤黒い液体を撒き散らしながら墜落する悪魔の、両断された身体が映った。そして、肩で息をしながら、その合間の地面に手をついてうずくまる秋都も。
「……秋都先輩!」
玲子にも、多少は赤いモノが飛び散っているが、秋都のそれに比べれば全く問題にならない程度だった。さすがに今の一撃で体力を使い切ったのか、駆け寄った玲子に体を預け目を閉じて、それでも秋都は申し訳なさそうにかすれた声を出す。
「悪い」
大きく首を横に振って、玲子は秋都の頬に手を当てて解毒呪文をかける。別に手を当てる必要はないのだが、こうしているほうが癒しているという実感があった。素早く解毒を終え、そのまま連続で回復呪文を唱える玲子に、秋都がまだ苦しげに、
「無理、するな」
「それはっ、それは私の台詞です!」
「違う。さっきの話だ」
「何がですか?」
「剣なんかより、魔法、使えばいい」
「……魔法にも精神力という限度があります。現在の状況が一体いつまで続くのかを把握するまでは、魔法はこうして、癒すことに集中して使用すべきです」
一瞬瞠目した玲子は冷静にそう返した。きっぱりとした、譲ることのない言い方だ。間近で見た眼鏡の奥の瞳は思いのほか強く、秋都は大人しく引き下がろうとする。確かに、ここ怠惰界で出来ることは待つことだけで、しかもいつまで待てばよいのかは分からないのだ。玲子の言うことは間違っていない。
が、そう言う彼女のその瞳はひどく頑なにも見えて、だからかもしれない。、少しだけその瞳を変えてみたいなどと、秋都にしてはかなり積極的なことを思ったのは。
「お兄さん、いるんだ」
「!」
ピクッと玲子の指が動く。先ほど、無意識に発した言葉のことなどすっかり忘れていた。……知られてはいけない、そう思った玲子の顔に焦りが浮かぶ。しかし秋都は、玲子に構うことなく唐突に、
「俺、妹がいるって、言ったか?」
「え? い、いえ。でも、有名ですから知っています。双子で、雪都さんとおっしゃるのですよね」
「……さっき、赤根沢が『兄さん』って言った瞬間、体が動いたんだ。毒のこと、忘れた」
一瞬きょとんとして、が、すぐにその意味を理解した玲子は瞳を瞬かせた。秋都はそんな玲子に、少しだけ気まずそうに身じろぎする。それが照れ隠しだと分かって、玲子はくすくすと笑みを浮かべた。
「妹さんが、大切なんですね」
「お互い様だ」
治療が終わり、玲子の手が秋都の頬から離れる。ありがとう、と言いながら秋都は玲子に預けていた体を起こした。それから、その、先ほどの思いつめた様子の消えた瞳を見つめて、言った。血に汚れたままでも、不器用な彼なりに精一杯、優しく笑って。
「早く、帰れるといいな。お兄さんのとこに」
その言葉に、玲子は刹那、息を止めた。
自分の犯している、軽くはない罪の一片を否応無しに感じて。
「……はい」
それでも、玲子の唇からこぼれるのは、間違いのない肯定の言葉であり。
そして、小さく決意する。
目的が何であっても、この人だけは護ろう、と。
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