醜いのは己の甘えか。
そう思えたのはまだアキラが幾分か人間であるからなのだろう。
だが、今、目の前で微笑む少女は、もしかしたら人間の限界線を踏み越えているのかもしれない。炎の化身である剣を従え、かつて同じ立場にあった魔神皇をひとつの哀れみもなく屠った―紺野真歩は。
向こう側に帰れ、終わりを告げたアキラに対して真歩はしばらく無言だった。まるで聞こえていないかのように腕にくくりつけたキーボードを叩いて仲魔をすべてCOMPに戻し、そして、ふうとため息をついて顔を上げる。
「アキラくんは……宮本くんは、勘違いをしてる」
真っ直ぐににアキラを見たまま言い直したのには、真歩に内在する区別という名の蔑視が含まれている。アキラがそれに気がついたのは、この白い迷宮に入ってからだった。
真歩がそれを隠さなくなったのはアモンの力を取り戻したアキラへの当て付けではなく、終わりが来るからに過ぎない。魔神皇はその頃すでに、唯の人であるはずの真歩の手に届く範囲に在った。やがて、その背に大天使の加護を背負うほどに強大な意思を保持し続けた人間が、神を名乗る異端者を越える時はあっさり訪れ、そして今。ここに残ったのは勝者のみだ。
「……なんのことだ?」
聞き返したのは、本当に心当たりがなかったからだ。
アキラはきちんと知ってきたつもりだった。真歩が悪魔と人間の混ざり物である存在を理解できずに戸惑い、やがて嫌悪感を抱くようになったのだ、と。協力してノモスをじわりじわりと登りつめてきた間、分かり合えるなどという幻想など放棄する以前に持ちえなかった。
「私はね、君が嫌いなわけじゃないよ」
が、クスリと真歩は笑った。可笑しそうなのではなく揶揄したのでもなく、言ってみれば聞き分けのない子を諭すような、そんな笑みで。
「説得力がない」
「そう? 本当なんだけど。ああ、けど好きでもないからかな。でも無関心でもない。なんていうか、パートナーって感じ。ビジネスパートナー? うん、そんな感じ」
生死を共にした―比喩ではなく本当に、だ―相手をそう割り切れるのは悪魔の側のはず。悪魔には感情など存在しない。内部にあるのは欲と業と合理であり、人間はそれにさらに情愛を付与し己と他者の関係に価値を見出す。それを行い得るアキラは、だから自分は中途半端なのだろうと自覚していた。
「勘違いしないで」
しかし、それをごく当たり前に行う人間であるはずの真歩は重ねてアキラに言った。剣を握っていない左手を薄汚れてしまった制服の肘に当て、自身を抱きしめるような、慰めるような仕草をしながら。
「私が助けたいのは自分であって、間違っても宮本くんじゃない」
「そんなことは最初から知ってる」
アキラの間髪入れない返答は、真歩にとって、あまりにも予想通りであり同時に終わりを告げる合図だった。だから、ああ、と残念そうな顔をして首を振る。同時にグズリとヒノカグツチが蠢いた。主と認めた者の心を察し、いち早く獲物を狩る準備を始めたのだ。
「私はこれから戻るんだよね? 普通の、平凡な生活に」
「そう言った」
「うん。じゃ、そのために憂いはすべて絶つことにするよ」
その獲物とは、今、目の前にいる者しかありえない。狩る者の心得として真歩はその表情を消した。重ねてきた模擬戦と同じ、アキラに一切の心を読ませない無心の顔でぐっと身体に力を込める。左手も剣の柄に添えられて、けれど最後の宣告は、ひときわ明るい声で。それくらいの過剰演出がこの場には似合う。
「さあ、君の番だよ。死に直してよ、宮本アキラくん」
塔はすでに動き出した。真歩がこの魔界から現実世界へ帰還するまであと数分もないだろう。だが充分だ。それだけの力をお互いに持っている。恐らく決着には1分もかからない。
ふへ、と疲れ切った吐息がアキラの口から漏れた。なんでこうなるのか、ちっともわからないが……ああ、違う。これが真歩の、復讐、なのだ。アモンの復讐の裏にあった意思、自分を利用して『人間の側』にいつまでもしがみついた女々しい生き物への最後の審判を下そうというのだろう。
「面白い。やれるもんならやってみろよ」
まったく傲慢なことだ。ならば、ここでできることは真歩の復讐を肯定し受け入れることだけ。そう思ってアキラは同じくらいの不遜な笑みを浮かべて見せた。
だがそれは、真歩にはまったく読み取れない。それは当たり前だ、もはやアキラの外見は、肉体構成は、人間ではない。その表情を読み取るなど唯の人である真歩には無理なのだ。
「君は知らない。どうして私が生き残れたのか、君は知っているけど気がついていないんだよ、宮本アキラくん」
『これで終わりか』
奇しくも同じことを心のうちでつぶやいてふたりは地を蹴った。それを知り得たのはあるいは、全知全能を名乗った悪意に弱き人、狭間偉出夫だけだったのかもしれない。