「え? じゃコレ、自分で作った曲なの?」
「……一応」
「へえ~スゴイじゃない。てっきり有名な何かだと思った。知らなかったわ、狭間くんがこんなにピアノうまいんだって」
「別に……学校で言いふらすことでもないだろう?」
「まあそうだけど……でもスゴイわねえ。作曲までするなんて、アタシからすれば神技ね」
ユミが心底感心したような声を上げると、狭間は大したことではない、とうそぶいてその長めの前髪をはらう。それからまた鍵盤に向かうと、優雅にその指を走らせ始めた。
狭間が秀才であることは、学年でも公然のことだ。
それは『成績』という目に見える結果から来るものであり、ほとんどの同窓生には、狭間はただ勉強ができるだけの人間なのだと認識されていた。近寄りがたい美貌と人付き合いを得意としないその性格も手伝って、狭間は学年でも完全に浮いた存在になっており、親しく付き合っている友人もいない。それどころか、その、全てが当たり前だと言うような態度を、あからさまに悪し様に言われていた。
そんな状況の中で、ユミは少しだけ他の連中より狭間についての知識が多かった。ユミは保健委員であり体が弱い狭間は保健室の常連、それだけの関係で親しいとは言えないが、他の生徒のような偏見は決して持たない。
―そう、偏見だ。ユミは、少なくともそう思っている。今、放課後も大分終盤に差しかかった音楽室で、一人無心にピアノに向かう彼と、噂に聞く彼は少しも結びつかない。彼はただ彼であるだけだ。たったそれだけ知っているだけで、こんなにも違うのに。
それから、しばらく。
狭間の奏でる旋律が、心地よくユミの周りを流れていて。
ふいっと、それが途絶えた。
「……終わり?」
しばらく余韻に浸って、ユミはため息を漏らしてからそう尋ねた。が、狭間は答えずにじっと、鍵盤に置かれた自分の手を見つめている。その手もまだ、最後に押さえた鍵盤の上から動こうとしない。
「イイ曲ね。アタシこういう音楽よくわかんないけど、イイ曲だと思うわ」
「そうかな……。この曲は、恐らく誰一人喜ばせることが出来ない曲だよ」
「どういうコト?」
「この曲は、悪魔を呼ぶ曲なんだ」
「は……?」
言葉は確かに聞こえたが意味がわからず、ユミをは首をひねる。それを見上げた狭間の、その唇が歪んだ。皮肉とも苦笑とも取れるその笑みに、思わずユミが眉をひそめそうになると、すらりとした白い指が黒い鍵盤のひとつを押しこむ。ポン、と単音が響いて、
「そういう、悪魔を召喚するためのコンピュータプログラムがあるんだ。これはね、それにあった……命令の癖や並びのパターンみたいなものを曲にしたんだ。キーボードを叩く代わりに鍵盤を叩いてみている、そんな感じ」
「……」
冗談かと思ったが、狭間はこういう冗談を言うような人間ではない。それに、何か今日の狭間は妙に饒舌だった。保健室で会うときは必要事項でさえ億劫そうに話すことを考えれば、これは異常と言える。
「僕はね、この曲を弾くと思うんだ。この世界じゃないどこかでなら、この曲をずっと奏でていられる、覚めない夢や明けない夜があるのかもしれないのにって。それは、やはりおかしい事なのかな……」
唐突に話が違う方に流れ、ユミのその戸惑いは一気に大きくなった。また顔を鍵盤に向けてしまったので狭間の表情は全くうかがい知れない。
だからユミは、もう一度狭間の言葉を思い返した。
覚めない夢。
明けない夜。
この世界じゃないどこか。
ユミは、そんなことを考えたことなどない。
なぜなら。
「……アタシの友達にさ、ものすごく……そうね、ものすごく素直な子がいるのよ」
「ここで友達の話?」
「ええ。その子ね、思ってるコトすぐに顔に出ちゃうし、よく笑うし泣くし怒るし、ホントに小さな子供みたいなの。そういう生き方って大変そうで心配で、でもアタシ、心配してるクセに、その子が不幸せになるって想像出来ないのよね」
「……何が言いたいのか、わからないんだけど」
「ココがドコでも、アタシきっとそう思うの。ソレ、狭間くんからすればオカシイこと?」
ふっと顔を上げた狭間は、夢から覚めたばかりのようにその瞳を瞬かせる。
「そうか。そうなのかもね」
「そうでしょ?」
「ああ……でも、そういう範疇じゃない気もするな」
「ムズカシイのね」
ついっと、ユミの腕が動いた。白い鍵盤のひとつに指を置くと、押さえる。ポン、と高めの音が鳴って、
「この世界が全部、そんな風にふたつに分けられるなんて思わないケド、この曲はイイ曲よ」
「……」
「アンコールしてもイイ? そうしてくれるとアタシは嬉しい」
そう言われた狭間が鍵盤に手をのせてから、一瞬間があって、じっと動かないその肩を横から見ていたユミが少し心配そうに、
「どうかした?」
「アンコールの間に、この曲の題名を考えてくれないか?」
「は? アタシが? ちょ、ちょっと待ってよ、アタシこういうのホントわから……」
「そんなこと関係ないだろう?」
「でもねえ……」
「白川さんがつけてくれると、僕が嬉しいんだ」
困ったように腕を組んだユミだったが、狭間が重ねてそういうと、困惑の表情が消え嬉しそうないたずらっぽい笑みに変わる。本当に、嬉しそうな笑みに。
「わかったわ。イイ名前つけてあげる」
それを合図に、ピアノが音を奏で出す。
最初の旋律に、小さなつぶやきを織り交ぜて。
「……ありがとう」