アリサ・ベリエフは、幼い頃から気が小さい子だと思われがちだった。実際に押しに弱いことは事実であったが、彼女と親密になった人間は口をそろえて言う、『アリサは芯の強い子』だと。
そのひとつの証が、アリサが進んだのが看護師という道だったことだろう。彼女はその理由のひとつに大陸大戦を上げている。幸いなことに彼女が育ったフェンクスまで戦火は迫らなかったが、街から男手が欠けることで戦争の有り様を、そして多くの犠牲のもとに自身が存在していることは実感していた。やがて停戦を迎えても不在のいくつかは埋められることがないままになり、戻ってくる人も五体満足でない場合が多く、しかしそれらを目の当たりしても怯まず、傷つく人々に相対する最前線を選ぶだけのものがアリサの内面には確かに存在する。
だから、選ばれたのかもしれない。
「初めまして。お会いしてくださってありがとうございます、アリサさん」
「あ、いえ……初めまして……」
にこりと微笑んだ目の前の男性に、アリサはおどおどと会釈するしかない。人見知りな彼女にとって、初対面の異性と打ち解けて話すなど無理な芸当だった。
アリサが軍属看護師として王立陸軍の航空小隊に配属が決まってすぐのこと、突如謎めいた手紙が彼女の元に届いた。昔、入院中に世話になった、そんな貴方の姿に心を奪われてしまった、などと並ぶ熱烈な口説き文句に面食らったのはもちろんだが、その差出人にまったく心当たりがなかったことが彼女をますます困惑させた。
普通の女性なら気味悪がるか無視してしまうところなのかしれないが、きっと人違いだ、それを教えねばならないと思ったのは実にアリサらしい判断だろう。ただ、まさかそこから相手の男性に会うまで事態が発展してしまうとは夢にも思っていなかったのだが。
「すみません。これ以上の踏み込んだ用件は文章に残せないものですから、直接、お話をさせていただきに参りました。他の皆さんには?」
「だ、大丈夫です。言われたようにしています」
何度も何度も届けられる、熱心すぎるラブレターの主にほだされてしまったという筋書きは当初から変わっていない。友人や看護師仲間たちが散々冷やかしつつもあれこれ恋愛の手ほどきをしてくれることが申し訳なかったが、事情が事情だ。……そう、アリサはただのん気に、逢引を楽しみにきたわけではないのだ。
「あ、あの、念のためと言いますか、確認なんですけど、グレイディーアって政治家の?」
「ええ、それですよ。僕は次男でケネスと申します。一応、父の補佐としてあれこれと、ね」
そうなのか、と思うものの、この青年と『政治家』のイメージはどうも結びつかない。柔らかい物腰といい整った容姿といいむしろ映画俳優みたいと思ったアリサだったが、無論、口にする気などなかった。
「さあ、どうぞ、お座りください」
促されテーブルにつくアリサだったが、落ち着かない気分は変わらない。招待を受けたこの店は彼らの御用達なのか給仕たちは心得たようにドアを閉めて立ち去っており、部屋にはふたりしかいなかった。いったいどんな話をされてしまうのかと、アリサはただただ視線をさまよわせる。
「さて、まずは甘いものでも食べます?」
「え、ええっ!?」
思わず声を裏返させたアリサに、ケネスはさもおかしそうに口元に手をやる。
「ここはそういうお店ですよ? アリサさんはどういったものがお好きですか?」
「あ、あう……」
これでは本当にデートに誘われたみたいじゃないかと、アリサはますます赤くなりつつ口をパクパクさせるしかない。しかたないですねぇと微笑んで、ケネスは給仕を呼んでさっさとテーブルを整えてくれた。それがあまりにも手馴れている上に絵になっていて、アリサはますます自分の場違いさに身を縮めてしまう。
「……す、すみません」
「なにを謝るんです。むしろ、謝るべきは僕ですよ。今からアリサさんをこちら側に巻き込もうとしているんですから」
「巻き、込む?」
「もちろん貴方に拒否権はありますから、ひとまず話を聞いていただけますか?」
「は、はい」
それから始まった話は、アリサの想像を遥かに超えていた。というよりも理解の範ちゅうですらなく、察したケネスが幾度か説明を入れてくれなければ知恵熱でも出してしまったかもしれないと、アリサは呆然としつつも相づちを打つばかりだ。
「……それで、小隊に派遣されるに当たり、貴方には兄の監視兼補佐役をお願いしたいのです」
「わ、私がっ!? そ、そんな、できないです!」
だが、最後にケネスが発した言葉にアリサは思わず腰を浮かせる。
どう考えても自分向きではない。そもそも軍人でもないし政治にも疎い、しかも嘘が苦手であまり器用でもない自分にそんなスパイのような行為などできるわけがないじゃないか、と心では反論をまくし立てているアリサだが、現実ではただ必死に、目で訴えるようにケネスを見つめることしかできない。
その視線を真っ向から受け止めて数秒、ケネスは一度、椅子の背に身を預けた。そのままテーブルで手を組み、少し顔を傾ける。それは見ようによっては、アリサの瞳を覗き込もうとしたようでもあった。
「貴方が、看護師を目指した理由は?」
そして放たれた問いかけは、これまたアリサにとって予想外のものだった。何故このタイミングで、と疑問に思いはするが、しかしこれに対する答えは明確だ。ならば、まずはそれを示すべきであろう。
「……世界では常に戦争が起こっていて、たくさんの血が流れています。血で血は、止められないのに」
「ええ、その通りですね」
「私はただの民間人で、政治とか民族対立とか難しいことはよくわかりません。それでも、私が手助けすることで、意思を持つ人がこの世界に正しく在って、そして行うべき事を行えればと、そう思ったから」
おずおずとした、しかし視線はしっかりと相手を捉えたままのアリサの言葉に、ケネスはゆっくりとうなずく。
「兄が軍部へ入る意思を示した。そこにははっきりとした意思があり、そして行うべきことを行ってくれると僕は信じている。貴方にその手助けをお願いしたい」
「でも、私じゃ……」
「僕と貴方は同じ人間です。同じように帝国も人の集まりなんです。そして人間はおおむね、自らが思うほどに幸福でも不幸でもない。大切なのは貴方のように望むことであり、その行為に飽きないことなんですよ」
「……え、えっと、意味が、よく……」
「いいんですよ、わからなくても。だってもう貴方は兄と同じく『知って』いるんだから」
「え?」
そこでケネスは、実はね、とひらりと手のひらを返して、
「いまの、人間云々の部分は兄の受け売りなんです。『だから俺は家業を継ぐのは遠慮しとく』って言って軍に入ったんですよ」
「お兄さんの?」
「ああ、そういえば兄の名前を言ってませんね。コリンです、コリン・グレイディーア。かの小隊でパイロットを務めています」
コリンさん、とアリサは口の中でつぶやく。……いったいどんな人なのだろうと湧いた興味が自分らしくないことに、果たして、彼女は気がついているのだろうか。
しかしどちらにせよ、これが彼女の迷いという霧を晴らす涼風となったことは間違いなかった。この席では保留したものの、数日後にもう一度ケネスに会い了解を告げたアリサの顔は普段よりも凛々しいものであり、これならば、とケネスもまた改心の笑みを浮かべることとなる。
だたその後、ケネスに『今度は本気でお茶にお誘いしても?』とささやかれたときは、もういつも通りの彼女に戻ってしまったのだった。
PR