「おい、またお嬢さんが来てるぜ?」
同僚のにやついた顔に、帰り支度を整えたばかりのアントニー・アレーニアは思わず眉間を押さえた。いつのまに終業時刻まで押さえられたのか、そしてその情報を『お嬢さん』に流したのは一体この職場の誰か、心当たりがありすぎて最早文句をつける気も湧いてこない。彼もそのくらいには、現在この整備工場に勤務する人間の興味が自分に向けられていることを自覚していた。
そろそろ不惑の境地を知り得る仕事一辺倒な独身男に、二十歳になった日に遡ったほうが早い女性が懸想する。まったく、どこの小説か戯曲かと言いたくなる現実が我が身に降りかかってくる日が来るとは、とアントニーは大きくため息をついた。それに、同僚はますます面白そうに肘で脇をつつく。
「なにを躊躇ってるんだよ。確かにちょっとばかし若いが、器量、性格共に文句なしじゃないか。というよりも、あんな可愛らしいお嬢さんがどうして無愛想で仕事ばかりのお前に惚れたのか謎だぞ、謎」
「……俺もそう思う」
結局、建物を出たところに佇んでいた『お嬢さん』に見つかり、断り切れずに一緒にお茶をと連れだされてしまった。彼の大柄な体のせいで余計に小さく見えるテーブル、その向かいに座る『お嬢さん』―リズ・マルケッティに同じ質問をしたことは、もちろんある。それに彼女はにっこりと笑ってこう答えた。
『恋のきっかけなど些細なもの。そうですね、強いて言うならば、貴方のそういうところに、です』
だからどんなところが、と聞き返せなかったのは、彼女の声があまりに自信に満ちていたからだ。まだ恋に恋していてもおかしくない年頃、いや、実際にこうして幾度か誘いに応じてみてわかったのだが、リズは歳にしては少し幼いところがある。無邪気と言えば聞こえはいいが、このままでは妙な男に引っかかって泣かされでもしてしまいそうだ。その点においてだけは、相手が自分で良かったのかもしれないと思うのはアントニーの自惚れではあるまい。つまり逆に言えば、リズをそういう対象として見ていない、ということでもある。
「アントニーさん、コーヒーはお好きでしょう? どうぞ召し上がってください」
「ああ、いや……」
小首を傾げたリズに、テーブルの上の手を所在なげに組み直す。なにしろ、彼はちっとも慣れていないのだ。いわゆるカフェーと呼ばれるような店に来ることも、そんな小洒落たところで女性とふたりきりであることも。
ここ数年の彼の生活は、職場と自宅、同僚たちと酌み交わす酒や見境いなく買い込む資料を読み耽ることに大半が費やされてきた。その現状に不満はないし、第一、整備士が天職である彼の機械への執心を理解してくれる女性など皆無で、『仕事と私、どっちが大切なの』なんて言葉を芝居以外で浴びせられたのはお前くらいだと同僚に爆笑されたこともある。それが何度か積み重なれば、このままひとり気楽に生きていくほうがいいという結論に至るのは当然だった。
それが、どうしてこんなことに。
「あー、その、リズさん?」
「はいっ!」
「……っ」
はきはきとした元気の良い返事は、まるで教師に答える女学生のようだ。しかも、なぜかとんでもなく嬉しそうに弾んでいる、呼んだアントニーがひるんでしまうほどに。
「あの?」
「え、いや……」
なにか意図があって呼んだはずなのだが、リズの予想外の反応にすべてが吹き飛んでしまった。そんな彼に、自分は不惑の境地はほど遠い、などと思う余裕はもちろんない。
「その、ですね。どうしてそんなに嬉しそうなのかな、と」
上手いごまかしができるほど自分が器用ではないことを自覚しているアントニーは、しかたなく思ったままの疑問を口にする。するとリズは、その質問自体がおかしなタイミングで発せられたことに疑問も挟まずに、胸の前で手を合わせて彼のほうに身を乗り出した。
「アントニーさん、初めて私を名前で呼んでくださいました!」
「は? そうでしたか?」
「あ、いえ、お話しの流れで呼んでくださったことはありますけど、アントニーさんからが初めてなんです」
なにを言っているんだこの娘さんは、とまでは思わないものの、どう返せばいいものやら見当も付かないほどの無垢な感情を向けられて、アントニーはリズの顔を、キラキラと輝くような瞳をポカンと見つめてしまう。
整備士として腕を振るい人に感謝されたことは、数え切れないほどたくさんある。しかし、こんな無条件な笑顔を向けられたことは久しくなかった。……彼はこの瞬間まで忘れていたのだ、誰かにこんな笑顔をさせることができる自分を。
が、リズはそんなアントニーの様子にすら感激していた。いつも困ったような、遠慮がちな視線しか向けてくれない彼が自分を真っ直ぐに見てくれた、その至上の喜びは彼女の背中を大きく押してくれる。
「あの、アントニーさん」
「は……」
「今日はこの一杯を飲むくらいのお時間しかありませんけど、今度はもっともっとたくさん、お話しをしましょう! 私、貴方のお声をもっと聞きたいのです」
「あ、えっ?」
いつの間にやら、アントニーはリズにテーブル越しに手を取られていた。いくら洗っても落ちないほどに染みついてしまったオイルで薄汚れた手と、彼からすればまだ少女と言ってもいいくらいに小さな白い手の対比はこの上ないほど鮮やかで、彼は不覚にも頬が熱くなるのを自覚する。
なにを考えている相手はまだ二十代だぞ。というか最近の娘さんはこうも大胆なのか、違う、このお嬢さんが無邪気過ぎなんだ。流されてどうする思いとどまらせる立場だぞ俺は。
「……リズさんがよければ」
自身を叱咤したアントニーだったが、一瞬でも、まるで少年のように胸をときめかせてしまったことはもう取り消せないのだろう。
帰宅後、彼がそんな自分を思い返し床をのたうち回りたい気分になるのは、また別の話だ。
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