ヨーロッパ北方に位置するユクトランド。この国にも、かのジパングのような明確な四季はないが、冬は来る。一段と冷え込んだ曇り空の夜、王都には白が舞っていた。
今年初めての雪か、そう思いながら、静かな町並みを歩くコリンは傍らをちらりと見る。いつもの無骨な軍用コートの流用品ではなくシンプルだが女性らしいデザインのコートを羽織ったエリカは、胸の前で手を合わせ、白く染まった細い息を吐いた。
「寒い?」
コリンの質問に、エリカが、え、と顔を上げる。だって、と合わせた手を指したコリンに、エリカは困ったように微笑んだ。
「違うの。緊張が解けなくって」
「だから緊張なんてしなくていいのに。別に偉い人じゃないんだよ、ただの一政治家だ」
「でも」
ますます困ったように頬に手を当てたエリカに、コリンは軽く笑う。まあ、心情は理解できなくもないからだ。
先ほどまで、二人はコリンの父であるスティ・グレイディーア氏と会食をしていた。コリンにとっては久しぶりに父と食事を共にした感覚なのだろうが、エリカはそうもいかない。なにしろ相手は現職の大臣であり、この国を動かしている頭脳の一人。更に言えば、通称『ロランド事変』と呼ばれるかの事件をきっかけに厭戦ムードに押されて国政に復帰し、革命の渦中にある帝国や周辺国との折衝を一手に引き受け、現在の平穏へと続く道を作り上げた人なのだ。
「でも、わかっただろ? 父さんも君の味方だ。というか、もう我がグレイディーア家はそろってエリカちゃんのために動くよ」
それに、今回が席がなんのために設けられたのかを思い出して、エリカはコリンの笑顔からわずかに目をそらした。
「どうして? コリンのお父様は……その……」
「ああ、俺が説得したわけじゃないよ? 最初はびっくりしてたし反対するところもあったんだけど、結局、君が望むのならって言ってくれたんだ」
その心理の奥底に、英雄を愛し愛されたこの少女が一番の犠牲者だ、という思いがあるのは想像に難くない。かの事変がなければ、ユクトランドが帝国に蹂躙されたことは間違いなく、加えてスティは事変そのものを大いに利用し、ユクトランドに最大の利益をもたらさんとしている。言い換えれば、英雄の影にこの国を隠しクラウスの命で未来を購っているのだから、罪滅ぼしを望むのは人として当然とも言えた。
「…………」
コリンの言葉にエリカはうつむいた。自分の言い出したわがままに、多くの人を巻き込もうとしている事実がじわじわと身に染み込んでいく。この一年半ほどの間、反対する周囲を相手に必死に戦い続けたつもりだったが、進めたのかはエリカ自身もよくわからない。でも、だとしても、何よりも。
「エリカちゃん?」
頭の上に聞こえる声は、とても温かい。これとよく似たトーンをしていたスティ氏の声もまた優しかった。いたわり、気遣い、悟らせようとするような、そんな想いに満ちていて……ああそうか、ならコリンはお父さん似なんだな、となぜか場違いな想いがエリカの脳を掠めて、
「!」
ふんわりと頭の上に感じた重みにエリカの体がこわばる。ずきりと痛んだのは心か、それとも己を責める錯覚なのか、はたまたもっと別のものなのか。
「こ、コリン。あの」
「嫌?」
くしゃくしゃと髪を撫でる手もまた、温かい。それが嫌なわけはない。それでもエリカは必死だった。どうすればコリンに伝わるのか。こうしてくれるのはクラウス唯一人であってほしいことを、どうすればわかってもらえるのか。いや、心優しい彼の、その優しさに付け込まずにいられるのか。それを必死に考える。
だってこれは、彼女だけのルールに過ぎないのだから。人は未だかつて、自身の記憶を外部に託す術を持ちえていない。それは、思い出こそが『人』を構成する重要な要素だからなのだろうか。
「別に子供扱いしているわけじゃないんだ。ただ、こうしたいって思ったんだよ。……でも、嫌みたいだね」
「そっ、んな!」
はじかれたようにエリカが顔を上げるのと同時に、すいっと手が離れる。絡み合った視線の先、コリンはやはり優しく笑っていて、エリカはなにか、大声で叫びだしたいような衝動に駆られた。なにを叫ぶつもりなのか、ちっともわからないのに。
「なあ、エリカちゃん」
「な、なに……」
声が震えたのは、飲み込んだ衝動のせいだ。と思ったエリカだったが、本当は違う。彼女は怯えていたのだ。なにか、今のコリンがひどく恐ろしい。
「今日、俺、少しだけわかったことがある」
そう言ってコリンはその場でひざを折った。着ている服が汚れてしまうのにもかまわず、エリカの前に跪くようにして、その顔を下から覗き込む。そこにあるのは彼が望むような表情ではない。それはわかっていたが、やはり傷つく自分にコリンは内心で苦笑した。
「コリン?」
「……いいんだよ」
言いながら伸ばされた両手に、エリカが思わず身を引いた。それでもコリンは怯まずに、その寒さに冷たくなったエリカの頬を包みこむ。彼女の想像よりもずっと大きく無骨な手は、多くの訓練と硬い操縦桿を取ることに慣れたエースの、空を今も舞い続ける男のものだった。クラウスが守り抜いた、その空を。
「思い出になってしまってもいいんだよ、君がそれを許すのなら」
そしてコリンは告げる。エリカが知らない魔法の言葉を。
「君は、誰かを好きになってもいいんだ」
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