毎朝のその光景にも、そろそろ見慣れてきた。
正確に言うと『朝』ではなく『起きた時に見る光景』だ。魔界には太陽も青空もないし、それ以前に時間という概念がとてもあやふやで一日の周期もはっきりしない。肉体が疲れを訴えたとき、もしくは精神が休息を求めた
ときが白川由美と彼―紅野啓太郎(こうの・けいたろう)にとっての『夜』に当り、目が覚めたときが『朝』だった。
そして、由美は紅野の習慣を知る。
紅野の、栗色をした髪以外はまったくの日本人である外見に似合わない、祈りの姿を。
由美が紅野よりも先に目覚めたことはない。その理由はよくわからないが、由美の目覚ましは決まって紅野が神に祈りを捧げる小さな声だ。あいにく由美は宗教には縁のない生活をしているので、それがカトリックとかプロテスタントとかロシア正教とか、授業で習ったどの宗派に属するのかわからない。寝ぼけ眼で、ああキレイな声だな、と思うくらいだ。
「アンタってキリスト教徒? よく祈ってるわよね」
その日、由美がそう尋ねたのに深い意図はなかった。身支度を整え、寝場所としていた回復の泉のある小部屋から出た先、ひたすら時間を潰しに怠惰界へ向かう途中でなにげなくされた問いかけに、紅野は軽く微笑む。
「知ってたんだ。もしかして、気に障った?」
「そんなことない。けど、ちょっと不思議でさ」
「祖母が熱心で、ね。それでまあ、僕もちょっとだけかじってる。洗礼は受けてないよ」
そうなんだ、と由美は傍らを見上げる。そこには、姿は見えないが『いる』。由美に魔法を操る能力を与えてくれた者、死すたびに力を貸してくれる何者かが。その者は由美の思想に関係なく、ハザマを倒して皆を救うという目的だけを認めてくれている。
「アタシは無宗教なんだけど、信じてる神様とか世界とかがある人には、ココってかなり異常なんでしょうね」
「んー、そうだね、確かに。天使も悪魔で、宗教もごちゃ混ぜだし、そこに関連性を見出すには僕たちはあまりに知識不足だ」
紅野はピッと左腕のハンドヘルドコンピュータを起動し、ゴーグルモニタではなく小型ディスプレイ部分にデータ参照画面を呼び出した。
仲魔にした悪魔たちのデータの大半は、紅野には理解できない文字列と数字で埋めつくされている。数字は恐らく彼らの能力を客観視したもので、文字列はパーソナルデータになるのだろうと推測はできるが、ゆっくりと解析する暇も、そのための知識も設備もないので確認のしようがない。それらをピピピ、とスクロールさせながら、
「それとも、彼らはそういうモノであって、僕たちが視点によって勝手に枠組みを設定しているだけ、ってことかな。より高次元に在る彼らを理解するには、僕たち人間に刷り込まれた世界観は通用しない、とか」
「……で、なんで祈ってるの?」
紅野がなにを言いたいのかわからず、由美は曖昧に話題をそらす。
別にこれは初めてではない。紅野は度々、こういった言い回しを使って由美を困惑させてきた。が、由美に話しているのかわからない、限りなく独り言に近いそれに不快感を覚えたことはない。
紅野は決して悪い人間ではない。由美はそう確信しているし、それ以上の好意に値する部分も持っていると思うから、一番に『学校を救おう』と声をかけた。そして紅野はそれに応えてあっさりとついてきてくれたのだ。これ以上に信用できる理由はない。
そんな由美に紅野はまた微笑んだ。そういえばこのヒト、語り始めるときは大抵この顔をするな、と気がついたのと同時に、彼は口を開いた。
「さあ、なんでだろう。やっぱり心のどこかで、悪魔や悪魔化した学校の人を殺していることを悪いって思っていて、言い訳をしているのかもね。それに、悪魔合体のこともあるし。あれ、殺すよりも罪深いことをしている気にならない?」
「ああ、うん。そうね」
邪教の館にいる老人は紅野たちに淡々と悪魔合体法則について説明し、依頼した通りに悪魔たちを混ぜ合わせて新たな悪魔にしてくれる。法則はわかっても方法はおおよそ理解できないその技は、ある意味、新たな生命を創造していることになるのかもしれない。改めて考え、さすがの由美も薄ら寒いものを感じたが、それをあっさりと紅野の一言が打ち砕いた。
「ああ、でも『ここ』の神はハザマくんなんだっけね」
「……だったわね。ああ、ゲンナリしてきた」
「あははは、ごめん。じゃあ話をちょっと戻して、白川さんは、神様はいないと思ってるんだ」
「いないんじゃないかしら。ここにいる悪魔たちは、そういう生き物って考えたほうが気も楽だし。アンタは?」
「僕は、信じているのか信じていないのかは難しいところだけど、神様はいるんだと思っているよ。あ、もちろんハザマくんのことじゃないけど」
その返答が意外で、由美は思わず数センチ上にある紅野の顔をまじまじと見上げてしまった。いつの間にか足を止めて話し込んでいたふたりの距離はわずかなもので、その行動は、いくら生死を共にしてきた仲とはいえあまりに無遠慮とも言えた。が、紅野もまた由美の驚いた顔を照れもなく見返す。あの、柔らかな笑みで。
「神様は、僕たちよりもほんのちょっと、感じる世界が広い人なんだよ。だからハザマくんが神だなんてことはない。彼は誰よりも狭い世界を望んだのだから」
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