魔界に飛ばされた学校と体育館を結ぶ、渡り廊下。そこはこの異常事態を象徴する空間だった。
柵の外は塗り込められた、触ることすらできそうな闇で、柵の内には腐っているのに生きている犬やら、神話に登場する妖精のようなものが闊歩している。が、腐った犬は人間でも対抗でき、妖精もちょっかいを出さなければ無害らしい。
そこを乗り越えた先の体育館に、なにかあるのではないか。突如直面した事実に戸惑う生徒たちがそんな期待を持つのにさして時間はかからなかった。実際に、確かめに行こうと言い出す者もいた。
そして、しばらくしてそこに、人間の頭蓋骨がひとつ、出現した。
それが誰のものかを知ったとき、黒井慎二は生まれて初めて胃液が出るまで嘔吐した。異世界に放り出されたというのに正常に働く水道とか、きちんと排水される下水施設とか、正常な事柄の全部が全部、憎く思えて、でもありがたかった。涙を浮かべながら、自分の中に悪いものが宿った妄想に取り付かれたように吐き続けて。
そのあと、黒井に残ったのは虚脱だった。
「あー……」
ぐたりと教室隅の椅子に座り込んだ黒井は、無意味なうめき声を出しながら天井を見上げていた。電算室という場所柄、この部屋は他の教室とは違う、どこかの研究所のような作りになっている。白く塗り上げられた染みひとつない天井は、微妙に黒井の気に障った。
本当に、これは、なんなのだろう。学校が魔界に堕ちて、同じクラスの人間が魔神皇とかいう悪者になって、生徒たちは右往左往するばかり。まるでゲームみたいだ、だとしたら、あの廊下はさしずめ最初の試練か? そう思っていたのは多分この校舎内にいるほとんどで、でも、決してゲームなどでは、なかったのだ。
「黒井くん? 大丈夫?」
「うっせぇよ、ほっとけ」
「ご、ごめん」
普通の教室なら教卓に当るところにある、最も性能の良いパソコンの置かれた机から聞こえた質問に、黒井は若干乱暴な答えを返した。黒井が怒っていると思い気弱な返事をした電算部部長の佐藤は、亀のように首をすくめるとパソコンのモニタに意識を戻してカチャカチャとなにかを打ち込み始める。
「さっきからなにやってんだ?」
「なんとか外部と連絡を取れないかと思って、色々試してるんだ」
広い教室の端と端という位置関係なのだが、ここにはふたりしかいないし、電算室は防音設備が施されているのもあって互いの声ははっきり聞き取れた。ふうん、と相槌を打ちながら黒井は椅子から身を起して、佐藤のほうを見やる。モニタ越しの熱心な佐藤の表情に、ふと、知り合いがゲームセンターで格闘ゲームに熱中しているのが重なった。
「……佐藤よぉ、オマエ、ゲームやんの?」
「え、あ、好きだよ。ゲーマーってほどじゃないけど」
「じゃーよぉ、勇者様のゲームってやんのか? 選ばれた勇者様が悪い魔王を倒しに行く、みたいなヤツ」
「つまりRPG? 結構やるね。でもいまやってるゲームは戦闘システムがイマイチで……」
「いや、別によぉ、そんな話はいいんだ」
ゲーマーじゃないとか言ったくせに、さっそくプレイ中のゲームについて薀蓄をたれようとした佐藤をゲンナリしながら遮る。さっき思い出した友人のおかげか、この手の輩には話をさせないのが無難だと黒井は知っていた。いまの精神状態では、そんな話、苛立ち以上の苦痛にしか黒井には思えない。
「オレ、ゲームなんてやんねーから知らねーけど、勇者様が旅立つ前に殺される奴っていんの?」
「は? それはまあ、悪い奴が悪いことをして困って退治しに行くんだから、犠牲になる人はいるんじゃないかな」
「そーゆーんじゃなくよぉ、勇者様の前の勇者様はいんのか? 中ボスくらいでやられちまうような、さぁ」
「そうだね、勇者の前に旅立ってる勇者ねぇ。あまり、いないんじゃないかな? 親の仇なんてのはあるけど」
「親父が勇者で?」
「そう、先に旅立って行方不明になっちゃったから探しに行くんだ。でもそれがどうかした、って黒井くん?」
話の途中でガタンと椅子を鳴らした黒井に驚き、佐藤もつられて立ち上がった。しかし呼びかけを無視して黒井はスタスタと歩き、出入り口の引き戸に手をかけて、そこでようやく佐藤を振り返る。
「なぁ、千草(ちぐさ)、知ってるか?」
「あ、ああ、D組の? 彼女、この事態をなんとかしようって行動してたみたいだね。声をかけられたんだけど、僕じゃ役に立てないだろうし」
「あいつ、食われた。最初の『ボス』に」
事も無げにそう言って、黒井はガラリと扉を開けた。言葉が佐藤に届き意味が咀嚼されるまでは、たった一瞬。しかし佐藤の脳は理解を拒否し、扉の音と黒井の声は重なって聞こえなかった、そんなふりをして聞き返すことを己に命じる。
「ごめん。いま、なんて?」
わかっているくせに、後回しにしようと言わんばかりに聞き返してくる。そんな佐藤に黒井は答えず、ただ、コンと開けたばかりの扉を叩いてみせた。
「ハザマはよぉ、開かせただけ、なんだよ」
千草鈴音(ちぐさ・すずね)は勇者様だった。
成績も運動神経も良い文武両道の優等生。しかしそれがまったく嫌味にならない気安い性格で、誰にでも屈託なく話しかけ、明るい笑顔と持ち前の聡明さで相手の警戒心を飛び越えて誰とでも仲良くなれてしまうような、そんな子だった。目立つわけではないが控えめに整った容姿もあって、クラス、いや、ひょっとしたら学年内で彼女のことを知らない人間なんていなかったろう。クラスメイトはすべて友達なんて嘘臭い言葉を地で行く子だった。もし同じクラスだったなら、あの不良の宮本明にさえ話しかけて友達になっていそうな子だった。
黒井も、ちょっと、いい子だ、と思っていた。
「勇者様を真っ先にやっちまったら、ゲームも終わりかと思ったんだけどよぉ」
ハザマの狙いは、これか。扉を開けさせ、生き残る決意を持つ者をあぶり出すため、そうでない者を学校内に閉じ込めておくために、最初に歯向かってきた人間を殺した。できる限り残虐な方法で、見せしめとして。そう簡単にここからは逃げ出せないと、だが抜け出す方法はあるのだと知らしめ、躍らせるために。
「……上等だ。オレは乗らねぇ、倒さねぇぜハザマ」
勇者はいつだって世界の生贄だ。世界の平和のために魔王に挑まされる。それは自分の意思などではない、『あいつならなんとかしてくれる』という期待を、真っ直ぐに受け止めてしまうように仕組まれているのだから。
「逃げてやる。逃げてやるんだ、ここから、絶対に」
静かな黒井の宣戦布告は、佐藤にすら聞こえていなかった。